昭和50年以下不明(梅の実会の次の日) ●② 【入力者:梶原佳行】



 (途中から)…お願いさせて頂きましたら、●②惰性に流されるなということを頂きました。ね、惰性に流されるな。段々信心がね、いわば長く続いておりますと、どうしても惰性に流される。あーこげなこっちゃいかん。こげなこっちゃいかんと。と思いながら、一遍そういう例えば癖なら癖が付きますと。それを繰り返していかんいかんと言いながら、流されてしまうんです。
 私は信心にはね、この惰性に流されるということが、もう生き生きとしたおかげの受けられない元になると思うです。自分の心にも生き生きした喜びは湧いてまいりませんです。ん、ただ惰性に繋がるおかげは頂いておりましてもです、心の中に生き生きと弾んだものが生まれてこないです。んなら、信心にさらといわれるのは、この弾んだ心のことだとと思うんです。さぁという心だと思うんです。●
 ですから、あの三代金光様が教えて、あのご自分のことを仰っておられるように日に日にがさらでございますと仰った。その日に日にさらだということはね、普通並大抵ではいただけることじゃ絶対ないです。必ず惰性に流れます、流されます。いうなら本気で、まぁ申しますなら、金光大神のいわれることにそむかぬように、という生き方を身につけていかんとさらなものは生まれてきません。
 もう信心のね、鮮度の落ちた信心はもう本当はつまらんです。値打ちはないです。どんなによい信心だというても。それは魚やら果物と同じことです。フレッシュであるということが生命です。野菜でもお魚でも果物でも。信心も同じです。ですから、いかにさらなものをです、いかにさらなものを頂く。
 私共、ご祈念の座にやらせていただく時にです、その今日申しますように生神金光大神様を本気に大恩人として、本当に恩人として、そのこれはもう今も申しますように、言葉にはどうも表現できませんけれども。今までかつてない生神金光大神様が、何か、生神金光大神天地金乃神と(  ?  )有り難うございますといよったような感じがする。
 ね、けども、最近はその生神金光大様ということをです、神様からも、凡人でおありになるということは、まぁ私共には、まぁいわば関係はないことですけれども、私共の恩人。私の恩人。それは生神金光大神様だと言う風に日に日にさらな、もう本当に中身の、いっぱい有り難いものの詰まった生神金光大神が唱えられる時です、ん、これは私が金光大神のいわれることにそむかぬようにというものを頂いておらなければこんな新しい、こんな斬新な生神金光大神様へのお礼は言われないと何時も思います。
 唱え言葉になり、ね、いわゆるマンネリ化した生神金光大神、天地金乃神では、もう本当の助かりということのようにはたちません。そこのところをいわば末永先生に、神様は教えて下さったんじゃないかとこう思うです。ね、だからこれは末永先生だけのことではない。銘々がそこんところを、果たして(頂こうか?)ずっとこう唱えておるが、その中に天地金乃神と同じようなことじゃないかと。
 ならその天地の金乃神様が、天地に通ずるような天地金乃神様かというとそうでもない。ただ言う通りだけ唱えておるだけでは、やはり本当のことじゃない。ね、その(  ?  )がある時にです、例えば昨日、私それを皆さんに一遍読んで聞いてもらいたいように、まぁ思いますけれども、昨日かずこさんがまとめておるその文章がもう本当に、もうやる気十分、生き生きとして、皆さんと掴んでおるところはほとんど変わらない。
 けれども、本当にそれに取り組んで行じますというようなものが、その読み上げの中に感じられたです。それはね、親先生があぁいわれるから、神様が願うておられるから。それに答えさせてもらうという、その、いわゆるやる気十分のものがそこににじみ出てくるというところにです、私は今日の御理解にね、金光大神まさかの折には助けてくれというところに、この生き生きとしたおかげがたち現れる。
 それには金光大神のいうことにそむかぬようにということは、今日私が皆さんに聞いて頂きましたようなです、内容を持つものであり、ためにはです、金光大神があぁいわれるから、それに本当に取り組んでいく姿勢というものが、生き生きとしたものがかけておるのではないかということを、今日私は聞いて頂きました。
 ね、最近私は生神金光大神が、本当に私の大恩人であるとして、生神金光大神様、天地金乃神様と続け( ? )にはいわれない。そういう、まぁ実感と。だからこそ、その大恩人と感じるからこそ、大恩人のいわれること。例えばよしそれが無理であっても嫌といわれんという心が非常に強くなりました思いがいたします。
 そこにです、生神金光大神様を唱えれば、そこに生神金光大神様の取次ぎの働きが起こって、天地金乃神様のおかげが受けられるようになるということになります。ん。御理解を頂いて有り難いとか、はー今まで初めて聞いたような御理解。はーなるほどなるほどというのではなくて、それを頂く、いわば実行する。守らせて頂き十分という意欲を持つためにです、生神金光大神、大恩人であるというね、いうならば親先生なかりせばというか。親先生を大恩人として頂けれる信心。
 大恩人のいわれることに右左いわれん。ね、それこそ大恩人のいわれることであるから、まぁ昨日の御理解でいうならば、信心は私の生命だ。又は生命以上だ。ね、だから金光大神が生命をくれといわれりゃ、生命をも惜しまないといったような、大恩人だからこそ、感じられる、そこ感じられるからこそいえれるのです。
 昨日の御理解を思い、又今朝のご理解を、続いてこう頂いて、ね、素晴らしいだけではいかん。それをやる気十分というものがなからないかん。ためには本当に、親先生をどう頂いておるか。あなたの、ね、金光教の信心をです、あなたにとってはどういうものかと。それはおかげを頂くからお参りしよるとというのじゃなくて、ね、金光大神そのものが金光大神を私にとって大恩人。お道の信心は私の生命をいわれるようなものもです、その大恩人を感じて初めてそれが出来るのじゃないかと思います。
 一つ、やる気十分を作らせてもらわにゃいけません。マンネリ化しておる自分に気付かにゃいけません。惰性に流されておる自分に気付かせて頂いて、ね、いわゆる本気で金光大神の言われることにそむかぬようにということを、ね、それこそ泣く泣くでも一つ辛抱しなければいけません。
 昨日、梅の実会で話したことでしたけれども。ある本を見せて頂きよりました。ん…、「約束は5分前に」というのに浸れました。だからこの本をまぁ読む気になったわけですけれども、ちょっと見せて、ここんところに目がついた。だからこのことをですね、あのまぁ皆さんに聞いて頂いた。
 例えば一時から始まります。その一時の、もうどんなことがあってもね、5分前にはという、これがあなた方の信条になる。一生涯それが貫かれる。だから素晴らしいことになるだろうと私は何時も申します。約束の5分前。ね、それがもう私の信条だということになったら、5分10分送れたっちゃ、よかよかちゅうごたる信心じゃ。
 ね、例えばそういうことがです、ね、親先生がそれを実行されておられる。親先生がそれを、そう願われておるから、と例えば恩人であると、本当に皆さんが思われるなら実行出来ないことはないですね。私は朝のご祈念前、30分前には出る。2時から私の、昼からの御用の時間ですけれども、1時半には必ず出る。いわゆる12時頃出ることもある。だから30分も一時間も前に出たたというのじゃない。約束よりもいうなら心に神様にこうと誓ったことをです、斬新な、そのやる気十分でです、ね、約束の5分前。もう約束の5分前。こりゃ難しいことじゃないと思うです。
 ね、それをなら親先生が言われるからというようなね、こと、そういうやろうと思えばすぐ出来るようなことからね、実行することです。もうよかよか、ご理解に間に合えばよか。例えばご祈念でもです。ね、そういうことでは、金光大神のいうことにずっと背き続けておるということになるのじゃないでしょうか。
 それは、それが自分の心行になるのですから。もう見やすいことになるです。ね、初めの間はバタバタしました。初めの間は一生懸命努力しました。けれども自分…(途中切れ)